バレーボール男子日本代表としてパリオリンピックに出場。2024年からは国内SV.LEAGUEのジェイテクトSTINGS愛知に入団し活躍。現在、2人の娘がいる父親でもある髙橋健太郎さん。
最高の環境で育ったという子ども時代、娘たちとの絵本の時間、そして大切な家族への思いについて語ってくれました。
──201㎝の長身と、掛け声でチームを鼓舞する姿が印象的ですが、どんな子ども時代を過ごしていましたか?
幼稚園時代、体はその頃から大きいほうでしたが、あまり強く物事が言えなくて、自分の気持ちを表に出せないタイプでした。どうしてもみんなの輪に入れなくて、毎日、お昼の時間になると、先生と一緒にほかの部屋にいる姉のもとへ行き、姉弟でお弁当を食べていました。その頃のことを話すと「うそでしょ!」と今は言われますが(笑)、そのくらい内気な子ども時代でした。
その頃、読んでもらった絵本で、思い出に残っているのは『ぐりとぐら』。卵とカステラがほんとうに大きくて! とても印象的でした。今は自分の娘たちによく読んであげている一冊です。
『はらぺこあおむし』(偕成社)も好きでした。くだものが描かれたカラフルなページが大好きで、今でもそれぞれの場面を鮮明に覚えています。
小学生になると、幼稚園時代とはうって変わって、自分を出せるようになりました。きっかけは特にないけれど、内気だった自分が嫌で、小学校に入って変わろうと思ったのかもしれないですね。当時はいじめられている子がいたら守ってあげたいという気持ちがすごく強くあって、1学年10数人ぐらいの小さな学校でしたが、気がつけばリーダーシップを取るようになっていました。
──子ども時代はどんな遊びをしていましたか?
朝から晩までひたすら野球に明け暮れていました。その頃の将来の夢はプロ野球選手。2006年のトリノオリンピックで、フィギュアスケートの荒川静香選手が金メダルを獲った瞬間をテレビで見ていて、「(野球で)オリンピックに出たい!」と口に出したことを覚えています。そのくらいの野球少年でした。
ただ、ぼくが生まれ育った山形は、冬は雪がものすごいので、野球はできない。そうなると雪遊びの出番です。かまくらをつくったり、ソリを持っていって自分たちでコースを作って滑ったり。
ぼくはかなり遊びにはアグレッシブだったので、厚く雪が積もった自分の家のてっぺんまで登っていって、屋根の傾斜をコースにして滑っていました。小学校のときはソリで満足できるんですが、中学高校ぐらいになると、それでは飽き足らずスノーボードで屋根の上を滑ったり(笑)。あとは、川で魚をつかみどりもしましたね。遠くに出かけなくても近くに遊ぶものがたくさんある。山形は子どもが育つのに最高な環境でした。
うちの両親は子どもにはあんまりゲームをさせたくないという考えで、「子どもは風の子、外で遊びなさい」とよく言っていました。だから泥だらけになって汚れて帰ってきても、怒られるどころか「よく遊んだね」ってほめてくれたんですよね。
──野球少年だった髙橋選手が、バレーボールに出会ったのはどんなきっかけだったのでしょうか?
志望先の高校の受験に行ったときに、バレーボール部にスカウトされたんです。それまで、バレーボールは体育の授業で少しやった程度。でも、母親が昔バレーボールをしていたので、お茶の間に集まって、家族でバレーの試合をテレビで見ることはよくありました。
当時、女子バレー部はあっても、男子バレー部はないという中学校が多くて、周りにバレーボールをしている男子がひとりもいなかったんです。だから、バレーボールは女子のスポーツだというふうに、その頃まではなんとなく思っていました。
スカウトされたとき、「はい、これ練習着」と短パンをもらったんです。その夜、ぼくはスカウトされたことがうれしくて、父に「バレー部のスカウトを受けたよ!」と意気揚々とその短パンに着替えて見せたんです。そしたら、「なんだ、その短いパンツは!」って怒っちゃって。それまで野球のユニフォームは長袖長ズボンだったから、父は衝撃を受けてしまったらしいです(笑)。うちの父はそんな感じで、男の短パンにびっくりするような、ちょっと古い感覚の持ち主でした。
──それからバレーボール選手としての道を進まれますが、2020年には第一子となる女の子が生まれ、お父さんとなりました。
ちょっと古風な父の背中を見て育ったので、自分も結婚した当初は亭主関白に近い考えでしたね。
でも、すぐに妻に怒られました。「もう今はそういう時代じゃないのよ。それぞれ仕事もしているし、ともに肩を並べてやってるんだからね」って。その通りですよね。
あるとき、妊娠中のお腹の重さを体験できる両親教室に行こうと妻に誘われたんです。でも、「バレーボールが今忙しいから」って言ってぼくは断ったんです。それに対して妻は「今大変なんだよ。お腹重いんだよ」というので、「それトレーニングなら5キロのダンベルぐらいだろう」と返してしまったこともありました。ダンベルと比較するなんてあり得ないですよね。まだ父親になりきれてなかったんだと思います。
そんな自分が父親として本当に変われたと思うのは、長女が生まれた瞬間です。出産に立ち会うことができたのも大きいです。それまでは、育児のことを勉強しなきゃと本などを見てはいました。でも、父親になるのに何かライセンスが必要なわけでもないし、何がきっかけで自分は変わるんだろうと漠然と思っていたんですよね。
出産に立ち会ったとき、本当に頑張らなきゃいけないっていう、何か熱いものが自分の中から湧き出てきたんです。宝物が生まれた瞬間だと本当に思いました。産院からの帰り道、これ以上にないくらい晴れやかで、満ち足りた気持ちでいっぱいで……。そこからぼくの意識はがらりと変わった気がします。
──その後、第二子も生まれ、現在、2歳と4歳の女の子のお父さんですが、ふだん親子でどう過ごしていますか?
1年前に、愛知県が本拠地のジェイテクトSTINGS愛知に入団したので、そこからは、関東に住む妻と娘たちとは別々に暮らしています。週に一度の休日は、前日に家に帰るんですが、ぼくが家に着くのは夜10時近く。娘たちはすでに寝ているので、次の日の朝、娘たちが起きてきてからが貴重な子どもたちとの時間です。朝7時ぐらいに妻は仕事に出るので、ぼくがその日は1日子どもたちと過ごします。
まずは、朝ご飯を食べる前に、娘たちが「パパ、本読んで」って言っていろんな絵本を持ってくるので、それを読み聞かせしています。
絵本は妻が買ったり、友人たちからおくりものとしていただいたりすることが多いです。
中でも『きんぎょが にげた』はこれまでにもう何度も読んでいます。娘たちは2人ともこの絵本が大好きで、取り合いになって破れてしまったページもあるほど。
ある時、『きんぎょが にげた』を読み聞かせしていると、次女が絵本の中の金魚を指差したんです。つい1か月前に読み聞かせをしたときにはできなかった指差しができている! 離れて暮らしてはいますが、絵本を通して、子どもの成長を感じられてとってもうれしくなりました。
自分が声を出して読んで、娘たちのいろいろな反応をや笑顔を引き出せる……絵本を読むことは、ぼくたち親子の貴重なコミュニケーションになっています。
朝ごはんが終わると、公園に行って体を動かしたり、買い物に出かけたり、ときにはテーマパークに行ったり、家でじっと過ごすことはほとんどないです。1週間に一度しか会えないので、朝から晩までたっぷりと親子の時間を楽しんでいます。
──離れて暮らすご家族への思いを改めて聞かせてください。
いま、ぼくは家族が住む家には帰れても月に3、4回ぐらい。帰れない週もあるので、すべての子育ての負担を妻にしてもらっています。妻にはもう頭が上がらないというか、月並みな言葉ですけど本当に感謝しかないです。
妻は、ぼくのバレーボール選手としてのキャリアを支えて応援してくれながら、自分自身のキャリアも追いかけている。そこには、子育てをしているから自分のキャリアを諦める、という姿は子どもたちに見せたくないという妻の思いがあります。
ぼくたちが思っているのは、さまざまな挫折も含めて、娘たちの人生のモデルケースの一つになれたらよいなということ。
ぼく自身、紆余曲折がありながらここまで来たタイプです。選手人生においては、全然順風満帆ではなく、若いころは試合に出場する機会がなかなか得られなかったり、怪我が多かったり、壁にぶつかっては乗り越えてきました。
順調な時だけではなく、そうでない時も含めて、親の生きる姿を娘たちには見てほしいと思っています。
子どもがもしいなかったら、ぼくは2021年の東京オリンピックに出場できなかった時点で、次のパリオリンピックはおそらく諦めていたと思います。でも、長女が生まれたことで頑張る覚悟ができたっていうか、「3年後のパリオリンピックにはあきらめずに絶対出てやる」っていう気持ちになりました。
バレーボール人生のいろいろな節目で、子どもたちの存在が強く影響しています。ぼく自身が、子どもたちに成長させてもらっているなという思いでいつもいます。
撮影:黑田菜月
撮影協力:ジェイテクト体育館(愛知県刈谷市)
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