いそがしい日々のなかで、ほっと一息つきたいとき、どうしていますか? この連載では、気になるあの人に「ほっとするとき ほっとするもの」をうかがいます。
第11回は、『石は元素の案内人』に続いて、新刊『いろいろ色のはじまり』を刊行した田中陵二さん。野外調査を行い、化学実験を行う研究者ならではの、心安らぐ瞬間を教えていただきました!

最近は地質調査のために、月に一度くらいのペースで野外に出かけている。野外調査では、道のない深い山野や沢を何時間も歩くこともしばしば。そこでたまに行きつく原生林、すなわち一度も人為的に伐採されたことのない森林に見られる見事な自然の営みは、一日中観察していても飽きることがない。気候や地質、土壌のみならず、大小さまざまな動物も植物も、あるいは菌類やバクテリアも参加して、平衡に達し循環するシステムを作っている。自分はそこに異物として挟まり込んでいるだけだが、ぼんやり眺めるくらいは許されるだろう。原生林の中で風の音を聴きながらのんびりしていると、とても落ち着く。
日が暮れ、夜になると、山は漆黒の闇に包まれる。月がなければ指先すら見えない。こんな闇は都会にはほとんどなく、不安という感情を愉しんでいる自分がわかる。とはいえ、一人きりで何日も山の中にいた後、下山の最後に自分の車の姿が見えてくると心底ほっとする。車は自分の占有する空間なので、車内に入るとそこで野外調査が終わる。街まで下りて見つけたラーメン屋ではつい店主に話しかけてしまうのは、人恋しかった証左なのかもしれない。

深い山で雨に降られると、わびしい気持ちになる。最新の雨具とて完璧でないので、雨の中の行動は体温が下がり、精神的にも低空飛行し、行動に必要な判断力が低下してくる。こんな時は雨やどりして、あたたかい飲み物で休憩するに限る。紅茶でもコーヒーでもいいが、糖分がどっさりと入っているものにする。好みとしてはミルクティー。お湯を沸かして暖を取り、これで飲み物を淹れる。風雨がしのげるところで身体を温めると、メキメキと体力と気力が回復するのが自分でもわかる。これに焚き火があれば完璧なのだが、もちろんガスバーナーの炎でもよい。炎をボーっと見ているととてもほっとする。人間は火炎を見ると落ち着くようにできているのだろう。先史時代からの人類の習性なのかもしれない。
山から下りてきても、一日に十回は飲み物を飲んでいる。他の人には、ただのさぼり癖だと思われているようだ。

私の本職は化学者なので、研究室でガラス器具を扱うことが多い。理化学ガラスは試験管やメスシリンダーのような量産品は機械による製造だが、少し凝ったものは全て手作りのガラス細工で、特注品も少なくない。当然値段も張る。半世紀前は多くの国立大学内に理化学ガラス製作施設があったが、人件費削減と後継者不足で、旧帝大を除き大半がなくなってしまった。これは民間ガラス会社も同じ状況で、歴史のある腕っこきのガラス機器メーカーが近年、相次いで店を畳んでしまった。その一因としては、職人の高齢化もあるが、全体として仕事が減ったことにある。ユーザーがきちんと作られたガラス器具の良さがわからず、安かろう悪かろうの製品に流れてしまうのだ。そんな経緯で、腕の立つ職人のいる理化学ガラス機器製造の国内メーカーは風前の灯火である。それでも、設計図通りに、さらにはかゆいところに手が届くようなきちんとしたガラス器具の特注品が納入されると、とても嬉しくなるし、安堵する。科学の最先端の現場は、想像以上に職人芸で支えられている。
文・写真 田中陵二

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