こどものとも70周年

林明子さんエッセイ「切実な問題」 ─『子どもを描く 林明子の世界』より

編集部より |
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『こんとあき』『はじめてのおつかい』をはじめ、人々に長く愛される絵本をたくさん手掛けてきた林明子さん。その仕事を広く深く紹介する新刊が『子どもを描く 林明子の世界』(4月中旬予定)です。刊行を記念し、同書に掲載されている林明子さんのエッセイを特別公開いたします。

切実な問題

林 明子

透明人間になって、こっそり人をスケッチできたらなあ、と思います。 駅のホームに立っているときなど、ふと我にかえると、じいっと他人のズボンのひだなどを見ている自分に気づいて、あわてて目をそらすことがありますが、見られていた方は、ズボンに何かついているんじゃないかと、余計な心配をされたかもしれません。一日中、狭い自分の部屋に、ひとりで入りこんでいると、ときどき、魂のひもがゆるみっぱなしになって、あらぬほうへ心が散歩に行ったっきり、時を忘れてしまうことがあります。そんな悪い癖が人様の前ででてしまって、相手が “ひと” だということを忘れて、いつのまにか、前にいる人の輪郭を目でなぞるなどという、失礼なことをしてしまうのです。

ちゃんと心のひもを締めているときでも、人を見たい気持ちには変わりありません。電車の中で、美しい人とか、風変わりな人に気づいたら、心がそわそわして、目は、うろうろと、いろいろなものを見るふりをしはじめます。そして、そこを通過するように視線を動かして、ちらっと視野の中に入れるくらいで我慢してしまいます。ああ、思う存分、じろじろ見ることができたら、どんなにいいでしょうね。

さし絵が、人のしぐさの一番いきいきした美しい瞬間を選ぶのは、詩がことばを選ぶのと同じだと思っています。有名な画家とか、絵についての知識は、とても乏しいのですが、あるとき、一枚の絵を見てびっくりしました。そのとき、はじめて、アーサー・ラッカムという画家の名前を知ったのですが、それは『不思議の国のアリス』の一場面でした。赤ん坊の帽子をかぶった豚を、アリスが抱いている絵です。右手は暴れる豚の左足をしっかり握っており、左手は右の耳をぐいとつかまえて、豚の顔を自分の方へ向けたところです。アリスはそうして、豚になってしまった赤ん坊の顔を、あっけにとられて見つめています。私はすっかりこの絵に魅せられてしまい、どうしたら、こんなしぐさを頭に思いうかべることができるのだろうと、うらやましい気持ちでいっぱいでした。『不思議の国のアリス』をちゃんと読んだことがなかったので、そのときは、画家が思いついて描いたポーズだと思っていましたら、ルイス・キャロルの原作に、そっくりそのままのポーズがことばで述べられていることを、あとで知りました。

いずれにしても、人が、本当にしそうなしぐさを、あざやかに表現したことばや絵を見るのは、とても楽しく感動的なことです。絵が、何気ない人のしぐさを描くのに成功すると、写真よりも、実物よりもリアルな表現方法になります。ときどき、そういうことを実感させてくれる、ちっちゃなさし絵を見つけると、うっとりして、飽きずにながめています。
 

レイモンド・ブリッグズの『さむがりやのサンタ』という絵本を見たときも、うれしくなってしまいました。サンタさんのどのしぐさも、どのしぐさも、みんな味わいのある、いいものです。小さな一例ですが、お茶や、ミルクやビールなど、くりかえし出てくる飲みものを注ぐ場面を見ると、少しずつ違ったさりげないしぐさで描かれていて、生きている人に実際に会っているみたいな親しみを覚えました。

私もできれば、そんな絵を描いてみたいのですが、実力の不足が切実な問題なのです。いろんな人たちのまわりに小ばえのように、まつわりついて、スケッチできたら、どんなに助かるでしょう。

私にできることといえば、前を歩いている人の後ろ姿を目でなぞることと、向かい側のホームに退屈そうに立っている人々を見くらべるくらいのことです。その点、絵の中の人は、いつまで見ていてもかまわないので、ありがたいことです。遠慮なく、模写までさせてもらいました。

カットも筆者
初出・「こどものとも」折り込み付録 1976年/『子どもを描く 林明子の世界』より転載



◆ 新刊『子どもを描く 林明子の世界』は、林明子さんが手掛けてきた仕事を広く深く紹介する本です。魅力的な絵やエスキースも、いっぱい詰まっています!

『子どもを描く 林明子の世界』 福音館書店編集部 編

『はじめてのおつかい』『こんとあき』などの作品で子どもの心の動きをすくいとり、繊細に表現してきた絵本作家・林明子。本書ではその多彩な作品を見渡しつつ、作品ごとの試行錯誤や工夫を、ラフやエスキース、宮﨑駿氏ら愛読者の声とともに紹介します。絵本以外の絵の仕事や、創作童話、漫画、エッセイも収録。「子どもに本物だと思ってもらえるように」と願い、描き続けた作家の思いにふれることのできる一冊です。

 
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