こどもとわたし

「語りのレシピ」星泉(研究者)

子育て |
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「こどもとわたし」は、さまざまな方面で活躍する方々に「こども」というテーマでエッセイを執筆していただく連載です。書き手は、毎回変わります。

第7回は、チベット語・チベット文学の研究者の星泉(ほし いずみ)さんです。
星さんのお母さまもチベット語の研究者で、幼いころの星さんは、チベットの昔話や物語を読み聞かせてもらうのが大好きだったそうです。チベットの昔話を翻訳する難しさに向き合うなかでたどり着いた、幼少期の記憶についてつづっていただきました。

語りのレシピ

星 泉

子どもの頃、料理本を読むのが好きだった。

台所近くの棚には母が買い集めたのであろう『ごちそう十二か月』『おべんとう十二か月』『お菓子十二か月』といったタイトルの、1970年前後に女子栄養大学出版部から出た料理本が並んでいた。口絵にはカラー写真があるものの、ほとんどのページが白黒写真と簡潔なレシピからなるその本は、たたずまいからしてちょっと地味で、子ども向けの本ではなかったが、図鑑が大好きだった私からすると、料理本はその続きのようなものだった。イグアスの滝や、パナマの民族衣装、雲を作る科学の実験ページを読むように、スペイン風クリームとか、ドイツ風りんごケーキ、あわゆきかんなどのレシピを飽きもせず読んでいた。

自分でも作ってみたいなあと思ったものだけれども、レシピに出てくる「天火」なるものも、「シャルロット型」なるものもうちにはないので、ただひたすらページをめくって読む。「なべ底を絶えずかき混ぜながら、とろりとなるまで煮ます」と書いてあれば、それを頭で思い浮かべる。それだけ。でも、どういうわけか、手順を読むだけで気持ちがよくて、いくらでも時間がつぶせた。

小学生の中学年になると母の隣で台所に立つことも増えた。「千切り」や「くし切り」あるいは「肉の色が変わるまで焼く」とか「タマネギが茶色くなるまで炒める」といった作業を自分でするようになると、料理の経験のない子どもには謎だらけだったレシピが少しずつ理解できるようになっていった。もっとも「レシピに何もかも書かれているわけではない」「実はある程度作る人の判断や裁量に任されている」と気づくのは、たくさんの失敗を経てからのことだが。

*  *  *

チベットの昔話の本は、子どもの頃に読んでいた料理本のレシピに似ている。すごくシンプルで、筋しか書かれていないのだ。オノマトペがほとんどないし、場面転換も唐突だ。それにチベット文化で当たり前のことはあっさり省かれている。つまり、「何もかも書かれているわけではない」ので、読む方は頭の中で補って読まなくてはならない。

チベットで何世紀にもわたり語り継がれてきた『しかばねの物語』を日本の児童書として翻訳することになったとき、まさにこのことが悩みの種となった。翻訳とは書かれていることを忠実に別の言語に移す営みだ。では、シンプルに書かれているものはそのまま翻訳するべきなのだろうか。でも、それでは日本の読者は楽しめないのでは――。

『しかばねの物語』について説明しておこう。主人公は、恩師の前で、とある罪を犯してしまった少年だ。少年は、罪をつぐなうため、遥か遠い墓場まで「幸いをもたらすしかばね」を探しに行き、一言も口を利かずに恩師のもとに届けるというミッションを負う。墓場にたどり着いた少年は、しかばねを袋に入れて背負って歩き出すのだが、しかばねが袋の中から語りかけてくる。少年はしかばねの繰り出す奇想天外なお話にすっかり夢中になり、つい感想をもらしてしまう。少年が口を利いた瞬間、しかばねは墓場に舞い戻ってしまうので、少年は再び墓場に足を運ぶ羽目になる。大きな物語の中に小さな物語が入れ子状に入った、枠物語という形式のお話だ。

『しかばねの物語』チベット語版
 
のら書店から刊行された『チベットのむかしばなし しかばねの物語』。装画と挿し絵はチベットを舞台としたマンガを描き続けている蔵西さんにお願いした

たとえば、しかばねが語ったお話の中に「お姫さまとカエル」というお話がある。水くみとして働く貧しいおばあさんは、自分の膝から生まれたカエルを可愛がっている。そのカエルがおばあさんを助けるために王さまと対決しに行く。その場面を、原文のシンプルさが伝わるように翻訳してみよう。

「王さまは大笑いして、まわりの者たちに言うには、おまえたち、聞いたか、小さい蛙が大きな話をした、とんでもないことだ、と言い、蛙の方を向いて言うには、私の花のように美しい姫を、牛糞のような不吉な者の嫁にやるか、おまえは出ていけ、おまえがもし出ていかないならトラ犬やヒョウ犬に丸のみにさせる、と言った。」

十分面白いのだが、語り口がちょっとそっけない。日本の子どもたちにこの面白さを伝えるためには、さて、どうしたものか。

私は子どもの頃、民話の収集と研究をしていた母に、チベットの昔話を聞かされて育った。私と弟のお気に入りは、ちょっと間抜けなガイコツの出てくるお話だ。ガイコツは骨でできているので、歩くとコツンコツンと音がする。音で近づいてきたことがわかるのだ。だから母が「コツンコツン」とささやくように言うと、私と弟はドキドキして、キャーッと叫ぶのが定番だった。後に私は母の残した民話集からガイコツの話をすべて確認したのだが、コツンコツンというオノマトペはどこにも書かれていなかった。つまり母の演出だったのだ。

そこではたと気づいた。チベットの物語本の語り口のそっけなさは、語り手に演出の自由を委ねるためのものなのではないか。本を読んで筋を頭に入れたら、どう語るかは語り手に任される。子どもに語る場合、大人に語る場合で、当然語り口は変わってくるだろう。大勢に話すのか、一対一で話すのか、相手がどう反応してくるかでも語りは変わり得る。たくさん出版されているチベット語の昔話の本は、チベットの人たちにとって、物語を思い出して語るためのネタ帳なのかもしれない。だからむしろシンプルな方がよいのだ。

チベットは伝統的に、書かれたものと比べて口頭での語りが重視されてきた。だから、昔話の文章は、筋のみというシンプルさでいいのだ。一方、日本の昔話は、オノマトペが入っていたりして、誰もがそのまま読み聞かせできるような文章に再話されている。だったら、私はチベット語と日本語の両方がわかる人間として、日本語読者向けの落としどころを探ろうと思った。

翻訳のスタイルもこれで決まりだ。改行や読点をやや多めにして、語りのリズムを視覚化したり、読者の邪魔にならない程度にオノマトペを入れるなど、ささやかな演出をする。でもあくまでシンプルに。読者が自由に想像したり、語ったりできる余地を残すつもりで。先ほどの場面はこのように訳した。

カエルの話を聞いた王さまは、わっはっはと大笑いして、まわりの者たちにいった。「おい、おまえたち、聞いたか。こんなちびガエルが、でっかい口をたたいたもんだ。まったくありえない話だ!」それから、カエルのほうを向いていった。「うちの花のように美しい姫を、牛のふんみたいな、不吉なちびすけのよめにやるわけがない。でていけ。もしでていかないというなら、トラやヒョウみたいにばかでかい番犬をよんでくるぞ。おまえなんか、犬にまるのみにされるがいい!」¹

1:『チベットのむかしばなし しかばねの物語』(星泉 編訳 蔵西 絵 / のら書店)128頁より引用

こうして2023年秋、『しかばねの物語』の日本語版ができあがった。その年の秋、毎年高尾で開催されている「ゾンバヤム チベット祭り」というお祭りに出向き、子どもたちを前にお話を語ってみた。すると驚いたことに、子どもたちは初めて聞く不思議な物語を面白がって、どんどん話しかけてくる。私もすかさずこう言う。「あ、待って、おしゃべりしたら、しかばねが墓場に飛んでっちゃう!」

物語から登場人物が飛び出してきて、子どもたちとまじわっているかのような、今まで体験したことのない感覚だった。

その後、縁あって「お姫さまとカエル」をもとに、紙芝居『おばあさんとカエル』を制作した。脚本は紙芝居のプロフェッショナルでもいらっしゃる、翻訳家の野坂悦子さんと共同で制作し、絵はチベット人アーティストのパクパジャプさんに描いてもらった。作り手になって初めてわかったのだが、紙芝居は、表の絵と、裏の脚本、そして場面転換を演出する「抜き」の技法などが組み合わさったユニークな総合芸術だ。演じ手の工夫の余地もたっぷりある。そこには連綿と受け継がれてきた語りのレシピが凝縮されている。

紙芝居「おばあさんとカエル」の試作品を「ゾンバヤム2024」で上演する筆者(撮影:池田裕美)

この紙芝居を、いつかチベット語に翻訳して、まだ紙芝居というものが知られていないチベットで演じてもらうのが夢だ。チベットの子どもたちに、日本式のレシピはどう受け止められるだろうか。想像するだけでわくわくする。

完成した紙芝居「おばあさんとカエル」の一場面。柱の影に隠れて小さくなっているのは王さま(IllustrationⒸPhakpa Kyap)

文・写真 星 泉
 

 

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